『蛇にピアス』小説&映画の感想

ここのところ毎晩、寝る直前までスマホで動画を見ていて、なかなか寝付けない日が多くなってきたので、少しでもブルーライトの摂取量(?)を減らすため、寝る前は読書で暇を潰すことにしました。

 

元々読書が好きなのですが、全ての荷物を夫と暮らしていた家に置いてきて、もちろん本など一冊も手元にないので、今日は本を買いに出かけました。

何冊か購入したので、順次感想を述べていければと思います。

 

今日は『蛇にピアス』を読みました。なかなか面白かったので、読了直後に映画も見てしまいました(映画はAmazonプライムに入っていれば無料で見られます)。

 

作品の内容そのものよりもまず私が感じたのは、小説と映像作品の頭の使い方の違いの大きさでした。

 

私は小説が大好きで、小説はすごく読み慣れていますが、映画はほとんど見ないので、そんへんの熟練度の違いかもしれませんが…もし私が、この作品を、小説→映画の順ではなく、映画→小説の順で鑑賞していたら、映画の見方が全然わからず「なんじゃこりゃ」となってしまったと思います。

 

例えば、小説だとルイが段々とアマのことを本気で大事に思い始めていることが結構わかりやすく描かれているのですが、映画はその辺がサラサラ〜っと流れていくので、もし映画しか見ていなかったら、後半にルイがアマの身を案じて泣き崩れているシーンを見て「なんでこの人、こんなに悲しんでるの?ルイの涙軽くね?」と思ってしまいかねないと思いました。

 

私の映画を見る能力の低さの話はこのくらいにして、作品の感想に移ります。

 

小学生みたいな感想ですが、主人公のルイの強かさと、ほんのりと不穏なラストに慄きました。

 

ここからは少しだけネタバレ要素がありますので、閲覧注意です。

 

ルイは、一言で言えば何でも自分の身にしてしまえる子なのかなと思います。虫歯で砕けた自分の奥歯を飲み込んだように。アマからもらった愛の証である、チンピラの歯を飲み込んだように。そんなふうに、アマの仇であるはずのシバのことさえ、シバを受け入れるという形で飲み込んで、その中に失ったアマを見出すのかな、と。最初は目を入れなかった刺青の龍と麒麟にも、最終的には目を入れて命を吹き込み、自分の命と「裏切れない」ものにしました。これも、刺青を入れた経緯を含めて自分の身に取り込む(刻み込む?)行為なのかなと私は解釈しました。

 

ラストはなんだか不穏な感じがします。先ほど書いたとおり、私はこれを、ルイがシバごとアマを自身のものとして受け入れたということなのかなと思いました。シバそのものを愛したわけではないと思います。単純に、シバはアマの仇でもありますが、私がそう思った理由はそれだけではありません。

 

小説の方では、ルイは最後まで地の文ではシバを「シバさん」と呼び続けます。セリフでは「キヅキ」と下の名前で呼んでいるにも関わらずです。これは、シバ本人を心から愛して=受け入れているのではないことを示しているのではないかと感じました。つまりシバを受け入れるのには他の目的があるわけです。それは、はっきりとは描かれていませんが、私が思うに「アマの容れ物」としての存在なのかなと思いました。

 

だから、アマを庇って慌てて髪色を染めたり長袖を着るようさとしたりしたのと同じように、慌ててお香を捨てたり買い替えたりしてシバを庇ったのかと。

 

本当のところは作者のみぞ知るところだと思いますが、私はそう想像しました。

 

ただ、この想像は、小説を読んだからこそ(地の文で「シバさん」と呼ばれているのを知っているからこそ)成り立つ想像であって、映画だけ見てもこのような感想には至らなかったと思います。

 

そういう点で、映画を見て色々なことを読み解ける人はすごいなぁと思いました(まさに小学生みたいな感想ですね)。

 

作品の感想はこんなところです。

この作品をご存知で、小説または映画のどちらか一方しか鑑賞していない方がいらっしゃれば、是非両方鑑賞してみてほしいなと思います。

 

ところで、高良健吾さん、アマの役にピッタリすぎませんか?端正な顔立ちに不釣り合いな唇と眉毛のピアス、じゃらじゃらしたシルバーアクセ、刺青がとても似合っていて驚きました。

正直、それが映画を見た最初の感想でした。

 

両方鑑賞したことがある方は、どちらをヒントにどういった感想を抱かれましたか?

もしよろしければ教えてください。